アダルトチルドレン「世界は自分用にできていないけれど」

アダルトチルドレンの生きづらさを解決するためのアドバイスはたくさんありますよね。

たくさんのAC関連の書籍が発売されてきました。

自己啓発などでアダルトチルドレンへの「こうすればいいんだ」的なアドバイスはたくさんありますよね。

でも、どれも決め手にはならなかったし、すっきり解決までにはいかなかった。

じゃあ、それってどうしてなのか?

もちろん理由はひとそれぞれあるでしょう。

私はいま、人それぞれあるって書いた。
そうです。アダルトチルドレンってひとくくりにできないほどの人それぞれ生きづらさはぎょうさんあります。

私も「あなたの生きづらさは、コレですよね。これが原因ですよね」っていわれたら「なにをゆうとるねん。あんたに俺の人生のなにがわかるねん」って言いたくなる。

それとか「ほんと今まで頑張ってこられましたよね」っていわれても「頑張りたくなかったわ。頑張りたくもないのに、そんなことゆわれてもナンの慰めにもならんわ」って言いたくもなる。

でも、いつまでも自分の生きづらさにこだわるのも嫌になってくる時もある。

けれど、私のことを知ってほしいし、理解してほしい、わかってほしいって思うことも確かにある。

でも、そんな私のことをわかってほしいだなんて子供じみててイヤになる自分もいる。

そんなことを考えていたら「あなたは子ども時代にしっかりと子どもを生きていないからだよ」ってしたり顔で評論されるのもなんだか鬱陶しい。

過去の俺の育成歴うんぬんかんぬん言うのはやめてくれって叫びたくなる。だってもう過去に戻って生き直すことなんかできないから。

生まれた家を変えるなんて、もう今さらできないねんから。

ほんま人のことを色々言ってくる人っていますよね。

でも、自分の好みの言葉を投げかけてくれるなんて相手に求めることなんてできませんわな。

そうやねん。世界は自分用にはできてないのよね。

だから、ちょっとした相手の言葉に「なんでおまえにそんなことをいわれなあきまへんねん」っていつまでも考えてしまう。

そんな夜が続くと、寝付けないし、朝はしんどいし、「もう、嫌や。あんなことなんであいつに言われなあかんねん」って四六時中怒らなあかんようになる。

もう誰とも付き合うもんか。嫌いや。どうでもええ。みんな、どうせ俺のことなんかわかってくれるかいな。

そう決め込んでみても、みなさんはどうか知りまへんけど、やっぱり人恋しくなりまへんか。

なんでやろ。そうやねん。人から認められたいし、わかってほしいし、ついでに好きになってもらいたいし。

そうなってくると「ええ歳して。人から承認されたい、愛されたいなんて、ほんま恥ずかしい恥ずかしい」って布団に顔をうずめたくなる。

布団に顔をうずめようとしたら「あかん。最近、シーツ洗ってない」と気づくやいなや、こんどは部屋の汚れが気になって仕方がなくなる。

ああなんて俺は整理整頓が苦手なんや。ほんまあかんわ。自分を責めてしまう。

やっぱり俺はダメじゃないか。どうしたらええねん。そしたら親切な人が「それでもいいじゃない。それがあなたらしさじゃないの。どこが悪いの」といってくれたりもする。

そしたら、これを読んでいるあなたが「この文章のオチはなに?」って気になりだしているのも感じている。

だんだん書いてるうちに、書きたいことを書こうとしていたのに、そこから脱線していったのをあなたに告白するとタイパ・コスパの時代に「どないしてくれますのや。時間返しておくれやす」っていわれるのがオチやから、やっぱりオチのない文章はあかんって思う。

思うけど、かつて笑福亭鶴瓶が明石家さんまに「なんでもかんでもオチつけなあかんのんかいな。オチのない話でもええやろ」と、えらく言うてはったんを思い出した。

そうや。落ち着こう。オチなんかいらんねん。でもやで、オチはあるねん。人生にはオチがあるねん。

身内の死に立ち会った俺からすれば、ああ人間にはオチがあるのはわかっている。ちなみに、この時のオチは終わりという意味やけど、その前におばあさんになるねん。おじいさんになるねん。

俺はおじいさんを見たことがない。そんなん書くと街に出たらいっぱいおじいさんおるやんけって親切に教えてくれる人はいてはるけど、そのおじいさんやないねん。祖父やねん。

俺はどちらの祖父も見たことがない。戦争で亡くなったからだ。

おばあさんも一人しかいない。若くして亡くなられたからだ。

だから俺もおじいさんになれるかどうかわからへん。

急におじいさんが戦争で亡くなったことを俺は言いだしたので、「なんやえらい唐突すぎて付いて行かれへんわ」と思われたことだろう。

けど、この祖父の死は、戦後生まれの俺にも影響を与えているんだ。

祖父が亡くなり、後から男が家にあがりこんで「旦那」「父親」になった。その男たちは、戦争帰還兵であった。飲んだくれで、暴力嗜癖のある男性であった。そして、今日はくわしく書かないけど、「戦争と家族」の暗い影は孫の俺にも及んでいるのだ。

俺はずっと自分のことを考えてきた。それは、自分と実家との関係を考えることでもあった。

自分の生い立ち。親から浴びた言葉の数々。親の情けなさ、ふがいなさゆえに苦労してしまった私の人生を、ずっと考えてきた。

父親は自分が果たすべき仕事をやらなかった。後始末は息子の私がやってきた。

私は無学の父親に文字と算数を教えた。「あなたが学校で勉強したことを、お父さんに教えなさい」と、小学生の私は母から言われたのだ。私はヤングケアラーだった。親子関係が逆転していた。

自分は幼い頃から「親の問題」を背負ってきた。そして、それが現在にどう影響しているか。ずっと考えてきた。

どういうわけか私は、親の問題に関わると、ろくな目に遭わなかった。

鬱陶しい親戚どもがいた。祖母の葬式、そして祖母の死後に残された法的な問題を解決しようとする私を妨害する親戚がいた。馬鹿馬鹿しい話だ。

親の老後問題に関わった時も、後味の悪い思いばかりしてきた。

親の味方になって俺を責め立てたケアマネがいた。そんなのほっておけばいいじゃないかと思われるだろう。でも、それができなかった。家族が介護をするのが基本の我が国のことだから、きょうだいがいない私は親の介護を一身に引き受けざるをえなかった。

親のために、私は長時間の面談の後、ケアマネと介護プランの契約を結んだ。しかし、後になってから、「どうも介護をする私が楽になるプランではない」ことに気づいた。私はケアマネに「ちょっと考え直したい」と述べた。

すると、血相を変えたケアマネは「あなたは親を大切にしないのか。なんで私が提案した介護サービスを断るのか!」と、病院のロビーで私を面罵した。親はそれを黙って見ていた。私が悪者になるばかりだった。

こんな理不尽な目に遭わされた記憶がふとよみがえり、今でも憤りを覚える。

こんなこともあった。親の看取りを特養でするか、病院でするか、この二択に迫られた時、私は迷いに迷った。その時も、私がその決断をひとりで背負ったのだ。

迷っている私に「あなたは親に対する想いが強すぎるんだよ」と特養の看護師に言われたのだ。こんな経験を、ふと思い出しては、ありありと怒りを感じてしまう。

私の今までの人生は、ずっとこんな感じだ。

父親の債務の肩代わりで苦しんでいても、母親の介護でしんどくなっていても、そしらん顔をしていた父親を思い返すと腹が煮えくり返るくらいむかついて、この前なんかもう少しで自分の腹で朝のモーニングコーヒーを沸かすところだった。

「朝はモーニングコーヒーに決まっているやないか」と、親切にいってくださる人は置いていきます。そうして親がらみのことで、さんざん私は嫌な目にあってきたし、未だにむかつくし、持って行き場のない憤怒の念にさいなまれている。

そんな胸がかきむしられる経験をしてきた。その過去のむかつく経験を思い出しては昨日のことのように怒りを感じてしまう。

そんな怒りで日常は染まってしまい、やがて私はおじいさんになる。

人生は短い。あっという間に、おばあさんになる。おじいさんになる。

そんなことを言うと「短い人生だから楽しく生きましょう!」「今を生きましょう!」なんて言ってくる人がいる。私はそうした言葉が嫌いだ。なんだか急かされている気持ちになるし、自分の人生を他人の意見で決めたくないからだ。

自分が幼い頃から一緒に暮らしていた親、そして実家という場所。そして親戚たち。

それがほんまに嫌なものなら、なにもかも嫌になるのはよくわかる。

他人に出会うたびに、仕事をするたびに、何かの組織に関わるたびに、嫌な思いをすると、うんざりするし、空しくなるし、悲しくなるのはよくわかる。

そして誰も自分のことなんかわかってくれないし、理解してくれないことを感じてしまうと、「世界は自分用にできていない」ことを思い知ることになるかもしれない。

でもね。世界にはええ人はいるんよ。

相手は自分好みのことを言ってはくれない。

世界は自分用に作られていない。

でもね、ええ人はおるんよ。

「ええ人、見つからんかったら? どうしたらええんやろか」といいたくもなるよね。

それやったら、無理せんでええねん。

人と一緒にいて辛い想いをするくらいなら、自分ひとりで愉しむ方がずっとええねんから。

そうして、ずっと自分にこだわって、自分のことをずっと考えてきて、ずっと親のことを思い返してもええねん。

かつての嫌な目にあったことを、考えてもええと思う。

そうしてるうちに、あなただけの言葉ができてくる。

孤独で苦しければ、誰かに助けを求めてください。

そしてまた「自分ひとり」でいることを、みじめに思うこともない。

「自分ひとり」は悪くない。なんとならば、そこで自分の言葉が自然に作られてくるから。

自分ひとりで何かを愉しめることができるならば、そんなあなたを「なんかおもしろい人やな」って興味や関心をもってくれる人はいてはるもんやで。

できることなら、あなたの言葉をあなたのリズムで、バイブスでいっぺんにではなくて、友達になってみたい人に最初は挨拶から、そしてゆっくり少しずつ、自分のことを話してみてもいいかもしれない。そうなると、話しかけた人も、ゆっくりあなたに話してくれるかもしれない。

いっぺんにぜんぶ話すこともなくて、またこんど会いましょうって、再会したときに、また話し合えたらいい。

そうして、だんだんと楽しくただ一緒にいてくれる人が「ええ人」やないやろか。

おばあさんになっても、おじいさんになっても、そうなれば愉しいで。

心理セラピスト
わたなべいさお

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