愛ってなに?
そうはいっても、あなたはこう思うかも知れません。
「愛されたい」「愛したい」
悩みが、不安がいつまでもつきまといますよね。
では、考えてみましょう。
「愛」とはなんでしょうか?
これを考える前に、「山」について考えましょう。
「山」とはなんでしょうか?
「なにをいっているの。そんなの決まっているじゃない」
はたしてそうでしょうか?
山は土でできています。その土は砂粒でできています。
では、砂粒がどれだけ集まれば「山」といえるのでしょうか?
どれだけの高さまで積みあがれば「山」になるのでしょうか?
では今度は、巨大な砂山をつくったとしましょう。そこから砂粒を一粒ずつ取り除いていきます。
何粒の砂粒を取り除けば、砂山は砂山でなくなるでしょうか?
100粒?……1000粒?……?
そうです。砂山から何粒の砂を取り除けば山でなくなるといった明確な境界線なんてないのです。
つまり、「山」に絶対的な定義なんて存在しないのです。
では今度は「犬」について考えましょう。
犬の種類ってたくさんありますよね。チワワやブルドッグやトイプードル……などなど。
ではチワワは人間が「チワワ」と名付ける前からチワワだったのでしょうか?
確かに「チワワ」という言葉ができる前から、目がクリクリした犬は存在したでしょう。
しかし「チワワ」という言葉ができる前は、それは犬であって、チワワではなかったのです。
「チワワ」という言葉を知らなければ、チワワを見てもそれは犬としか認識できません。
「そこに犬がいる」としか思えない。
「チワワ」という言葉ができてから初めて、あの犬はチワワと識別できたのであって、初めからチワワがいたのではないのです。人間が勝手に「チワワ」と名付けて他の犬と分けただけなのです。
「チワワ」「ブルドッグ」「トイプードル」は人間が言葉を使ってつくりだした「概念」に過ぎません。
ゆえに「チワワ」という言葉がないと、チワワという犬はこの世界に存在しないのです。
「チワワ」という言葉を知らない人からすれば、それは犬なのです。
でも、「これはチワワですよ」と教えられて、その言葉を知ると、目の前にチワワが立ち現れるのです(識別できる)。
「山」もそうです。人類がこの世界にいなければ、「山」なんて存在しないのです。
ただ人間が「これは山だ」「これはチワワだ」と名付けただけです。
世界に山・チワワがあって、「山」や「チワワ」という言葉ができたのではないのです。
山・チワワという事実が最初からあるわけではないのです。言葉ができて、あ、あれは山だな、チワワだな、と認識できるのです。
つまり世界は言葉で出来ているのです。
人間は、まず言葉があって事実を認識しているのです。
言葉がなければ事実を認識できないのです。
では、お待たせをしました。「愛」って何でしょうか?
まだ山も犬も実態があるのでわかりやすいですが、とたんに見えにくくなりましたね。
この自然界のどこを探しても「愛」は存在しません。
「愛」という言葉がなければ「愛」もありません。「愛」は言葉の世界にしかありません。
「愛」は人間が勝手につくった概念なのです。
さらに「山」「犬」と違って「愛」には実態はなくて、つかみどころのないものです。
なのに、「愛」という言葉でわかった気になっている。
彼氏の愛とあなたの愛はちがうのに。彼女の愛とあなたの愛はちがうのに。
親の愛とあなたの愛はちがうのに。
時代によっても状況によっても国によってもちがうのに。
なのに、「絶対的な愛」があると思ってしまう。だから悩みだすのです。
「でも本当の愛ってあるんじゃないの」
と、思われたかも知れません。けれど、「本当の」「偽りの」というのも言葉の世界にあるだけの概念です。この世界に「絶対的に本当のもの」はありません。
「山」「犬」と同じで、「本当の」「偽りの」というものは言葉の世界にしかありません。
この自然界には「本当の」「偽りの」というものはありません。
「本当の薔薇」がないように。
「偽りの潮騒」がないように。
「探しても本当の愛が見つからない」と悩む必要はありましょうや。
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