機能不全家族を生き抜いて、そして私たちは大人になりました。
社会に出てから、いろんな経験をするなかで、
こんな疑問を持たれたことは、ありませんでしょうか?
「どうして、いつも私ってこうなんだろう」
「なぜ、同じような経験を繰り返すのだろう」
自分に対して「どうして?」「なぜ?」と問いかけること、ありませんか?
たとえば、こんな具合にです。
「どうして、私はいつも自分のことを責めてしまうのだろう」
「なぜ、『私が悪いんだ』と罪悪感にさいなまれるのか?」
「なぜか、いつも被害者の気分になってしまう。どうして?」
「いつも心に穴が空いたような空虚感、さみしさがあるのは、どうしてだろう」
「怒りが止まらなくなる。こんな私じゃないはずなのに」
「友人や恋人ができても『どうせ私は、見捨てられる』と感じてしまう」
「自分のことが不憫に思えて自己憐憫にかられてしまう。
どうすれば、ここから抜け出せるのだろう?」
「他の人は幸せだ。私は不幸だと、不幸感に苦しむのは、なぜ?」
「私はダメだって、頭のなかでこの言葉がくりかえされるのは、なぜ?」
「どうして、いつも同じ躓きばかりするんだろう」
――あなたも、このような自分自身への問いかけを、よくしませんか?
けれど、自分自身への問いかけには、答えが出にくいものです。
答えが出にくいので、よけいに思い悩んでしまいますよね。
では、自分では解けない自分を辛くさせる考え、感情はどこからやって来るのでしょうか?
このことについて、考えると見えてくるものがあります。
このことを、このページでお伝えしていきます。
どうして、自分を責めてしまうのでしょうか?
もし、ご自身のことをひどく、繰り返し責めてしまうならば、それは「過去における失敗」を今でも呼び覚まされているからです。
「過去における失敗」とは、親の期待と要求を満たせなかったことへの失敗です。
どういうことでしょうか?
アダルトチルドレンを生みだす機能不全家族。
その家族にはいろいろなタイプがあります。
依存症の問題があったり、暴力があったり、ネグレクトがあったり、親の「愛し過ぎ」という過干渉があったりと、家族問題はさまざまあります。
けれど、ある共通点があるのです。
機能不全家族の共通点――それは親の期待と要求を満たすことが優先される家族だということです。
そこでは、子どもは親の期待と要求を満たすために駆り立てられるのです。
よって、子どもの欲求は後回しにされるのです。
子どもは、親たちの期待と要求を満たす役割を担います。
親が満たされることが、優先される家族。これが機能不全家族のシステムです。
機能不全家族において、子どもが「テストで悪い点を取った時」「野球で三振をした時」親はこんな態度を子どもに示します。
「ほんとお母さんは恥ずかしい」
「お前はドジだな」
どうして、こんなことを親は言うのでしょう。
親からすれば自分たちの期待と要求が満たされなかったので、こんなふうに子どもに言うのです。
あるいは、学校で辛いことがあって「わたし、つらい」とお母さんに伝えたとしましょう。
それに対してお母さんは「私だって辛い」と言ったとしましょう。
これは、お母さんはお父さんと上手くいっておらず、欲求不満を子どもに伝えたわけです。
つまり子どもは両親――夫婦の不満を対処する役割を担わされたのです。
そして、子どもの学校での辛さは、見過ごされるのです。
こうして機能不全家族では親の期待と要求を満たすために、子どもは頑張ります。
しかし、親の期待と要求を満たせないと、子どもは失敗したと深く感じてしまうのです。
そこへさらに、「テストで悪い点を取った」「親の機嫌を上手く取れなかった」なら、どうなるでしょう。
私は失敗したという想いが、心の底まで染まってしまうでしょう。
失敗したと感じた子どもは、今度こそ頑張らないといけなくなります。
これは子どもからすれば、とても過酷です。
まだまだ未熟な子どもが、親という大人に合わせて生きるのですから。
子ども時代とは、大人になる準備のための大切な期間です。
それなのに、親を満たすために生きてしまえば、子どもは「自分という人間」をつくる余裕が奪われます。
いつも心の焦点は、親の気持ちに向けられます。
なので「自分が何をしたいか。どうなりたいか」について感じることが難しくなります。
自分の価値観を根づかせるのが、難しくなります。
よって自分を形成していくことが、出来なくなる。
- 自分は失敗したという想い。
- 自分という人間を形成する機会の乏しさ。
- 自分の価値は親次第。
自分という存在の根っこが育たないのは、本人に苦しみを感じさせます。
自分という「よりどころ」がないからです。
そこへさらに「私は失敗した」「役に立てなかった」という想いが追い打ちをかけます。
これでは、自分を責めてしまう心の癖が出来ても仕方がないと、私は思います。
そして、この切なさ、孤独感が誰にも受け止められずに大人になると、どうなるでしょう。
大人になっても「私が悪いんだ」「私はダメだ」と、くりかえし自責してしまうことになるのです。
たとえ自己否定感に悩んでも「けど、自分は大丈夫だ」と考え直せばいいのです。
しかしそれは、私たちからすれば困難に感じます。
なぜならば、「自分の価値は親次第」だったからです。
「自分の価値は親次第」……子どもからすれば親って大人の代表でしょう。
親は、社会の窓口とも言えます。
そんな親の期待と要求が満たせれば褒められて、それに失敗すると「お前はドジだな」「こんなことでは、まともな人間になれないぞ」と頭ごなしに否定されてきたならば……。
そして、この親の態度が「大人(社会)の真実」であると、子どもが深く受け入れたならば……。
どうなるでしょう?
「自分の価値(評価)を決めるのは他人だ」というロジックが大人になっても、その人を支配するのです。
それだから、大人になってから、他人に言われた意見で深く傷ついてしまう。
そのたびに「私はダメだ」と自分を責めてしまう。
そこから立ち直るのが大変なのは、子ども時代に「自分という人間を創る」機会に乏しかったためです。
アダルトチルドレンは、とてもしっかりされている方が多いです。
勤労で、業務遂行に熱心であり、周囲から誠実で信頼できるとの評判が高かったりします。
けれど、ふと自分のことが不安になったりもします。
「大丈夫だ」「なんとかなるさ」と、なかなか思えないのです。
それは子ども時代に、親の励ましを受けながら「自分の根っこ」を、育てる機会が少なかったからだと思われます。
「自分という存在への確かさ」が希薄だと、「私は大丈夫だ」「なんとかなるだろう」とは、なかなか思えません。
また「自分の価値は相手が決める」ならば、どうしても相手の評価にふりまわされます。
これでは、人間関係で思い悩んでも仕方がないでしょう。
ここで、私は急いであなたにお伝えしたいことがあります。
だからと言って「じゃあ! 自己肯定感を上げよう!」「自分を創るってなんだろう!」と、慌てないで欲しいのです。
その理由を次から述べていきます。
「自分を向上させる」ことに慌てなくても良いのです。
アダルトチルドレンにとって必要な「手助け」とは?
機能不全家族を生き抜いたことで、心に重荷を背負ってしまった。
アダルトチルドレンという痛みが、とても辛い。
では、こうした心痛を解消するのは、何が必要でしょう。
どんな手助けが大切でしょうか?
解消方法の内容よりも、まずは負担の軽い解消のやり方を選ばれてはいかがでしょうか。
私たちは親の期待と要求を満たすように、教えられてきたかと思うのです。
アダルトチルドレンは、家庭内の雰囲気や、緊張している両親の関係を緩和するために、気を配って生きてきたと思います。
そして、社会に出ても、友人・先輩・先生・同僚・上司などの期待と要求を察知して、それを満たすように行動してきたのではないでしょうか?
自分のことを後回しにして、誰かの理想のために生きてきた……。
ここで、私は思うのです。
私たちは「なんとかアダルトチルドレンの苦しみを解消したい」と思います。
そのために本を読んだり、セミナーに行ったり、カウンセリングを受けたりします。
でも、自分自身に向き合うことで、かえって苦しくなるならば、それはどうしてでしょう。
それは、解消への取り組みのなかで、自分が自分自身に期待と要求をしているから、ではないでしょうか?。
今まで私たちは、親や家族などから「私たちの期待と要求を満たすよう」に求められてきました。
それなのに、アダルトチルドレン解消の過程で、「あの先生の指導を身につけなければ!」「出来る自分にならなければ!」と、自分自身に期待と要求を課してしまうと……どうなるでしょうか?
そうです。自分が親からされてきたことを、自分にもやってしまうことになります。
これでは本末転倒です。
「自分への支配」という苦しみが、これからも続くからです。
たとえば、自分自身の「欠点」「弱み」を改善しようとすると、かえってしんどくなる。
それは、自分自身に「パーフェクトで強い人間」などといった理想像を押し付けているからではないでしょうか。
ですから、自分を駆り立てるような解消方法は、アダルトチルドレンの痛みには不向きなのです。
できるだけ負担の軽い、自分を追い込まない方法で、解消していくことです。
今まで、親や他人の理想のために生きてきてこられたならば、「自分を磨く」「自分を向上させる」ことを、いったん止めてみることをお薦めします。
「え? 自己否定感に打ち勝つには、自分の価値を上げるべきでは?」
そう思われたかも知れません。
けれど、私はこう思うのです。
「自分の価値を上げるのは、自分自身を駆り立てて、自分を支配することにつながる」
「苦しさのコアである『自分自身への支配』をやめることが先決だ」と。
最近は、自己肯定感を上げることが目指されていますよね。
でも、よくよく考えてください。
「私はなぜ、自己肯定感を欲しくなるのだろう?」と。
もし、それが「人から元気のある人に見られたいから」だったら、自分のためではなくて、他人のために自己肯定感を上げることになります。
他人のために自己肯定感を上げるならば、その先になにが待っているでしょうか?
他人の期待と要求を満たす生き方です。
その生き方を守ると、自分のパワーを他人に明け渡すことになります。
自分の価値は他人次第になってします。
これでは、過去と同じ道を歩むことになりませんか?
だから、かえって苦しさが大きくなると思うのですが、あなたはどう思いますか?
もちろん自己肯定感を上げることは間違っているとは言いません。
大切なのは「なんのために自己肯定感を上げるか」なのです。
自己肯定感を上げる目的は、「あなた」のためであって欲しいのです。
今まで私たちは、親の期待と要求を満たすために動員され、自分のことを後回しにしてきたのですから。
これからは「あなた」のためにご自身をケアして頂きたいと思うのです。
ここまで考えてきて、見えてきたことがあります。
そうです。アダルトチルドレンの痛みのケアについて、好ましい道筋が見えてきませんか?
つまり、自分が主人公になって自分自身をケアしていくことが、最適な解消方法だと思うのです。
自分とは、自分の人生の専門家です。
ですから、ケアの主人公は本人の方が上手くいく、と私は思います。
カウンセラーやセラピストが専門家ではないのです。クライエントこそが専門家なのです。
専門家といっても、クライエントのすべての人生を知ることなんて出来ないのですから。
ですから、クラインエントの人生がもっとも価値があるものとして尊重されるべきなのです。
あなたの人生をいちばんに知っているのは、あなたです。
あなたは、あなたの人生の専門家なのです。
「だけど、自分の力では、どうにもならない」と思われた方もおられるでしょう。
「自己否定感が強くて、いつも苦しいのです。
自分ではどうにもならないのです」
と、感じた方もおられるかと思います。
そのことに、次の章にてお答えしていきます。
自己否定感といった「問題」を解消するために
自己否定感という「問題」――。
たとえ「自分には問題がある」と感じられていたとしても、「私が問題だ」と見なさないことです。
あくまでも「問題が問題」なのです。「あなたが問題」ではないのです。
「自分が問題なんだ」と見なすと、私たちは自己否定感を強くします。
「自分イコール問題」なのですから。当然、自己否定感は強くなります。
そうではなくて「問題が問題」だと見なすことで、問題の解消もやりやすくなるのです。
なぜならば、「問題」を自分から切り離すことが出来るからです。
けれど、「自分が問題だ」と問題と一体化していたら、ずっと悩むことになります。
では、具体的にどうすればいいのでしょう。
話を進めていきますね。
さて、あなたの「問題」とは、なんでしょうか?
自分を追い詰めるような思考かもしれません。
自分を卑下したり、自己憐憫に追いやる「何か」かもしれませんね。
あるいは、私を不安へと導くような反すう思考や、心の痛みかもしれません。
自分を落ち込ませ、不快にさせ、惨めにさせる感情・思考を取り除こうとすると、かえって厄介なことになります。
自分を辛くさせる感情・思考・出来事を除去してはいけないのです。
ここでも負担が軽い解消方法が良いことが分かります。
「問題」というのは、それを自分から切り離して、外に出して、ありのままに眺めて、味わい、分解していく方が上手くいきます。
まずは、自分のなかにある「問題」を自分から切り離すのです。
そうすることで、「自分」と「問題」との関係が変わります。
それはまるで、サイズの合わない窮屈なシャツを脱ぎ去るみたいなものです。
「問題」との関係が変わると、「問題」からの支配が終ります。
問題からの支配を終わらせて、ようやく問題の解消に進むことが出来るのです。
では、どうやって「問題」を自分から切り離すか。ですよね。
これは、ひとりでは難しいです。
ひとりで「問題」に向き合うことになるからです。
自分ひとりで「問題」に向き合うと、「問題」がマントラのように、ささやいてきます。
「あなたは変われないよ」
「悩むのがお似合いだよ」
「幸せなんかなれないよ」
こうした頭のなかのマントラの響きを、自分ひとりで断ち切るのは容易ではありません。
だからと言って、努力と根性で問題を解決するのは、修行のようで苦しいばかりです。
だからこそ、しつこい塊のような「問題」を解消するためには、誰かの手助けが必要なのです。
誰かの手助けがあれば、思わぬ発見ができます。
「ああ、だから私は悩んでいたんだ! そういうことだったのか!」
この驚きは愉しみでもあります。
こうした愉しみは、問題解消に欠かせません。
愉しみがあるからこそ、自分を苦しめてきた問題に向き合えるのです。
そしてまた、自分で悩みに向き合うと、どうしても盲点が生まれます。
自分を苦しめる正体って、たいていは盲点になっています。
その盲点は、誰かの手助けによって、気づけるのです。
盲点と言えば……そうです。自分の強みって盲点になっていませんか?
長く思い悩んでいると、自分の強み、価値、リソースを忘れるからです。
やはり誰かのガイドによって、自分の良さ、価値、リソースが見いだされるのです。
見いだされたリソースや強み、資質こそが、あなたの問題解決に活用されるのです。
以上、お伝えしてきましたことを実践するために、私は個人セッションを提供しています。
個人セッションでは、あなたにマッチした心理技法を組み合わせて、セラピーを進めていきます。
さあ、自分を取り戻す「個人セッション」で、自分の心の故郷へ還る旅を始めていきましょう。
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