このページを書いているのは機能不全家族を生き抜いた当事者です。
当事者による「親への怒りを止める考え方」について、これから書いていきます。
当事者として書いていきますので、文章を敬体ではなくて常体で書いています。あらかじめご了承ください。
親に怒りを覚える理由とは?
どうして、私たちは親に対して怒りを覚えるのだろうか。
その理由は、人によって異なるだろう。
しかし、あえて一つに絞るとすれば、それは「親に期待しているから」ではないか。
まったく期待していない相手に、怒りを感じないだろう。
親に対する怒りは、裏を返せば期待の裏切りから生じている。
「親に期待はしていないよ。ただ、過去の出来事を思い出すと腹が立つんだよ」と考える方もいるだろう。
実際、私自身もそう思っていた。ふがいない父に期待などしていないと。
しかし、最近になって気づかされた。私は、父に対して期待していたのだ。
私は、父から言葉が欲しかったのだ。
「ごめんなさい」「ありがとう」「頼ってばかりで、すまない」と、言って欲しかったのだ。
だが、父は黙りこくるか、怒鳴り出すばかりだった。
息子の気持ちに向き合い、言葉で応じることのできない父。
そんな父と向き合うたびに、私はどうしようもない苛立ちを感じていた。
父親と言うのは、まったく何もしないし、できない人だ。
自分の親の葬式すらも出せない人だった。
自分の妻も介護や入院についても、まったく何をしないし、できない人だった。
失業をしてもずっと家にいて何もしない人だった。私や母親が職安に引っ張っていっていくのだが、恥ずかしいのだろう中に入ろうとしないのだ。
父親はまったく文字が読めない人である。
私は母親の指示で小学生の時に、父親に勉強を読み書きを教えていた。
父親がカタカナすら読めないことを知った時、私は泣いた。すると父親は「なにを泣いているのだ」と私に怒鳴った。
文字が読めない父親は、手続き関係が一切できない。だから職安にも行けないし、自分の親の葬儀も出せないし、妻の入院・介護も放置。私に任せっきりだったのだ。
そういう父親が、母親の入院に際して、慌てふためいた。そして私に、こう言った。
「親は、家で面倒みなければいけない」
あきれてものが言えなかった。
つまり「俺の面倒をみろ。俺は家から出たくないのだ」といいたいのだ。
家族を大切にしなかったそれまでの父親のふるまいを思い返しながら、「俺の面倒をみろなんて。よくも言えたな」と……怒りが湧いてきた。
怒りが湧いてきた自分を感じてみる。何が私を怒らせるのか。
そして気づいた。私は父親に「世話になってすまない。自分は何もできない。ごめんなさい。お母さんのことを頼みたい」という返答を期待しているのだ。
しかし期待は外れた。「親は家で面倒をみろ」と自己犠牲を強いてきた父親だった。
だから私は怒りを父親に覚えたのだった。
私が怒りを覚えるのは、父親に期待しているからなのだ。期待通りのふるまいをしてくれない父なのに、私は期待しているのだ。
父親から期待通りの言葉をもらえない私の怒りは止まらないだろう。
では、どうして私は期待してしまうのだろう。親から受けた苦しみが大きいからなのか。
苦しみが大きいからこそ謝って欲しいのか。苦しみを理解してもらいたいのだろうか。
腐っても親なのだろう。誰だって親に理解されたいのが子どもなのだろうか。
いずれにしても親になんらかの期待があるから、親への怒りを覚えるのだと思う。
期待しているとは、こだわりがあるから期待するのだ。
では、親へのこだわりを止めるべきだろう。そのために親から離れて独立すればいいのだろう。
しかし、そう一筋縄にいかないのが機能不全家族の親なのだ。
なぜなら機能不全家族の親は、娘・息子を手放さないから。
自分の妻が入院した際に、慌てふためいた父親。
そして「親は、家で面倒をみないといけない」と言い放った父親。
そこには家族を手放すと生きていけない父親の心情を垣間見ることができる。
機能不全家族には、こんな暗黙のルールがあったりする。
「家を出るな」
家族同士が縛りあうのが機能不全家族の特徴だ。
だから自由に生きたいように生き難い。
いつも「親のこと」「家族の問題」が頭の中を占領してしまう。
だから親のことを忘れられず、怒りもぬぐいされないのだ。
親から自由になれない理由
機能不全家族においては、家族たちが本来満たされるべき欲求が満たされない。
家族が家庭内で求める欲求には、以下のものがある。
- 養育されること
- 心身の安全
- 精神的安心感
- 安らぎ
- 愛情
- 尊重と承認
- 自尊感情の形成
- 成長の機会
- 自立のための力の獲得
- 理解されること
これらは、すべての家族にとって基本的な欲求である。
これらの欲求が満たされると、家族は機能する。
では、欲求が満たされないと家族はどのような状態に至るだろうか。
「こんな安らぎのない家なんか出てやる」と、家族はバラバラになるだろうか? 家族は離散するだろうか。
しかし家族は、バラバラにならない。離散しないのだ。
むしろ、家族は結びつきを強める。
その結びつきとは、親和的なものでなくて「支配する・支配される」というものだ。
家族は結びつきを強めて、縛りつけ合う。
たとえば、兄は父親による弟への暴力に恐怖を感じる。その恐怖によって兄は家族に縛られる。
母親は娘の行動にいちいち口出しをし、干渉することで母親と娘は結びつきを強める。
父が母に対して家庭内暴力をふるうので、家族は暴力に縛られる。
アルコール依存・借金・ギャンブル・浮気・暴力などの家族問題に家族は振り回される。問題に家族は縛られる。
問題から逃れるために実家を出ようとすると妨害される。家を出ようとするとかえって結びつきが強化される。
このようにして、機能不全家族の家族メンバーは「家」に縛られる。家族同士の結びつきがタイトになり拘束される。
それゆえに娘・息子は生きたいように生きられない。
それでも家を出て独立しても、執拗に親は干渉してくる。
ひとり暮らしをしている娘・息子の家に勝手にあがりこむ。毎日、電話を掛け続ける。職場に電話をかけてくる親もいるほどだ。
私自身も毎日何度も電話を掛けられた。
ひとり暮らしをして親から離れても安らぎはなかった。
ひとり部屋にいても親のことばかりが頭に浮かんでくる。いつまでも親が付いて回るのだ。
そうだ。親というのは頭の中にいるのだ。
親とは概念上のものなのだ。
だから親に期待してしまうのだ。
「親とは子どもを認めて愛するものだ」といった具合に。
しかし、現実は違った。親は支配者だった。
このギャップがさらに怒りをつのらせる。
では、どう考えればいいのだろうか。
「親」と「親の問題」を分ける考えてみる
「毒親とは絶縁すればいい」こんな意見がある。
けれど、結びつきを強めるのが機能不全家族の親であって、絶縁するのは難しい。
ある方はアメリカまで逃げた。しかしどうやって調べたか分からないが親はアメリカの職場まで電話をかけてきたそうだ。
あまつさえ親を振り切っても、いつまでも頭の中では「親」が占領しているので、怒りがやまない場合もある。
だから私は「家を出たらいいのだ」と容易にはいえない。
けれど独立した方が良い。自分の人生を生きてもいいのだから。
独立した娘・息子に親がしがみついてきたとしよう。
そんな親に対して、こうも言えるだろう。
「私はあなたの子だよ。あなたは親だよ。でもあなたの問題は私には関係ないよ。私はあなたの親の問題に興味ないよ」
「親」と「親の問題」を区分してみる。親と親の問題を分けることで、たとえ親への期待があっても怒りを持つ機会は減るのではないだろうか。
「親はこうあるべきだ。しかしウチの親はそうではない」といった具合に「親」と「親の問題」を一緒にしているからいら立ちを覚えるのではないだろうか。
「親は親だ」と、そこで終わらせる。「親の問題は興味がない」と考えてみる。
さらに「親は親だ。私は私だ」と考えてみる。
そして対等な人間関係が結ばれる「居場所」を見つける。そこに身を置いてみる。
「居場所」を見つけるためには「自由になる」ことだと思う。
「居場所」を見つけるために「自由になる」
機能不全家族は、安らげる居場所とは言い難いものだった。そして「自由になる」ことが許されなかった。
親はいずれこの世を去る。自分の方が長く生きる。
長く生きる自分は、どう生きたいか。
なにがやりたいか。
楽しみたい。
やりたいことをやりたい。
いろいろあると思う。
自分が望んでいること。
それを手に入れるために、味わうためにふさわしい「居場所」に自分を連れて行く。
そのために「自由になる」
自分の翼を広げて、居場所を探しにいこう。
その居場所は、「支配する・支配される」人間関係ではなくて対等な場所であるべきだ。
人間関係は、他にもある。
支配-被支配の関係ばかりが人間関係ではないのだから。
もちろん親が長生きすると介護問題が浮上する。
この国は、家族介護が中心だ。
私もこの家族介護の言説に苦しめられた。
しかしふたり親の介護をして分かったことがある。
家族介護を社会が要請してきても、必ずこの考えに立ち返って主張してみよう。
「親と、親の問題は別です。私はそこまで親の問題を背負い込みません」
こうした親と子を区別してくれるケアマネジャーを選ぼう。
家族介護を押し付けてくるとか、親の味方ばかりするケアマネが実際にいる。
そうしたケアマネに苦しんだら、いつでも解任したらいいと思う。
「親」と「親の問題」を分けて考えよう。
そして、生きたいように生きていい。
親も子も、生きたいように生きればいいんだ。
わたなべいさお

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