問題のない家族であっても見捨てられ不安をもつ人たちが生みだされます

「親に見捨てられた覚えがないのです」

「親は私を愛してくれたと思います」

と、言われながらも、「見捨てられ不安」を訴える方は少なくありません。

虐待や親の依存症といった「目に見える問題」があった場合、子どもたちに悪影響を与えることは、よく知られています。

しかし、虐待がなかった家族でも、親にアルコール依存などの問題がなくても、子どもに悪影響を与えることがあります。

「家には問題はありませんでした。親も良くしてくれていたと思います」といわれる方であっても、大人になってから恋愛において親密な関係をつくりにくい、人間関係で同じ躓きを繰り返してしまう――そんなケースは少なくありません。

「確かに親はいつも私のそばにいました。しかし、親から情けをかけてもらった感じがしないのです」と、親からの情緒的な支えが乏しかったことに気づかれて静かに泣かれる方がおられます。

すなわち、親からの虐待や暴力といった見捨てられ体験がなくても、子どもは健全な成長が阻害されます。

ありのままの存在として生きることが許されず、条件付きの愛情しか与えられず、尊厳が侵犯され続けると、子どもは親から見捨てられたと感じるからです。

親同士が険悪で仲が悪く、緊張した関係である場合、子どもは波風を立ててはいけないと思い、自分の欲求や感情を抑えます。

あるいは親に余裕がないため子どもの欲求・要求にこたえる能力がないと、発達のために必要な教えをもらうことができません。

これらのケースにおいても、子どもは見捨てられたと感じるのです。

幼少期において自分の家族に起きていた事実を認めることで、現在、見捨てられ不安の原因は家族関係にあったと気づくことができるのです。

家族に問題がないのに、どうして見捨てられ不安をもつ人が生みだされるのか?

家族や親に問題がないにも関わらず、見捨てられ不安をもつ人が生みだされます。

たとえば、親の要求や期待が優先されて、子どもの欲求やニーズが後回しにされる家族では、子どもは情緒的なサポートを受けることができません。

つまり、親の心が満たされてからでないと、子どもは親に欲求を伝えたり、甘えることが許されないのです。

親が情緒的不安定であったり、夫婦が険悪だった場合、彼らの問題に子どもは巻き込まれます。

そして、親をなだめたり、慰めたり、夫婦関係の緊張を和ませるのが子どもの役目になります。

すなわち子どもは親の願望を満たすために動員されるのです。

本来、健全な家族では親は子どもの欲求や要求にこたえることに責任があります。

しかしながら、このように親の期待や要求にこたえる責任が子どもに押し付けられる家族が存在するのです。

責任において親子関係が逆転している家族では子どもの尊厳や存在は無視されます。これが常態化すると、子どもはどう自分のことを評価するでしょうか。

つまり、子どもは親に自分の存在をないがしろにされたわけですから、自分自身を大切にすることを学ぶ機会が奪われます。

よって、「自分はダメな存在だ」「自分は価値がない」と思い込んでしまいます。

自尊心を育めないため、自分を信じることが困難に感じるようになります。

あるいは、子どもが親に表現する感情や欲求をわずらわしく感じる親ならば、子どもの感情や欲求は軽視されます。あるいは「お前はわがままだ」「いつまで、駄々をこねているのだ」と非難されます。

すると子どもは、感情や欲求を持つのはダメなことだと、思い込みそれらを抑圧します。

よって自分が何を感じて、何を望み、何をしたいのかについて、分からなくなるため、ついには「自分が分からない」ようになるのです。

自分自身を生きることがゆるされないと、主体的に生きることの大切さを学ぶ機会が奪われたまま大人になるので、自分の感覚や考えを信じることができなくなります。

そして、絶対的な存在である親が、子どもの心の声を親身になって聞かず、むしろ自分たちの期待に応えるようにしむけると「自分自身を生きてはいけないのだ」と、空しさを生み、無価値観をいだくようになります。

そもそも、親たちは大人ですから、大人としての責任で、自らの欲求は夫婦間で満たしあうか、自らのやり方で解消するものです。

しかし、親たちは家庭を、自らの空虚感や不全感を解消する場にしてしまうならば、親の行為や態度に、子どもは気を使い疲弊してしまいます。

子どもは親の不全感や欲求不満を事前に察知しては、彼らを和ませ、喜ばせ、家の中が暗くなるのを未然に防ごうとするからです。

もし子どもが気を使っても家族内に緊張がみなぎれば、私は悪いからそうなったのだと、子どもは思い込みます。つまり罪悪感が植え付けられるのです。

親の顔色をうかがい、親同士の関係を和ます責任を担う子どもは、やがて他人の期待や欲求にこたえてばかりの「他人のために生きる」態度を身に付けます。

あわせて「自分は価値がない」と思っているわけですから、恋愛で対等な関係を結ぶことが困難になるばかりか、「価値のない私は、いつか捨てられる」と、見捨てられ不安を抱えることになります。

「私の親は私を愛してくれていたと思いますが……」

我が子が赤ちゃんだったり、2歳、3歳の頃、親にとって子育てはまだやりやすいものです。

ですが、子どもが大きくなるにつれて、子どもの欲求やニーズは複雑になります。

仕事や夫婦関係で不全感や欲求不満を抱えた親たちは、我が子の複雑な欲求やニーズに対応することが難しくなる。

確かに親は娘や息子のそばにいるが、しっかりと子どもの感情に向き合うことができない。

たとえば、子どもが「学校であったいじめ」についてお母さんに伝えても、お母さんはそれを聴いてはいるのですが、聞き終わるとすぐに「お母さんも悲しいわ」とお父さんとの関係のストレスを娘に聞かせるのです。

この場合、母親は娘の話を聞いてはいたけど、「心ここにあらず」であり、娘の感情を受け止めなかった。そればかりか自分の心の辛さを娘にきかせたのです。

そして娘は母親のなぐさめ役になるのです。ときには父親を恨み、責めるように娘を仕向けるのです。

こうして、夫婦が果たすべき責任を子どもが担わされるわけです。

あるいは、親の夢をかなえることが子の役目であったり、「食べていけるのは誰のおかげだ」と聞かされる。そして子どもの存在は小さく扱われます。

また、「あなたのために言っているのよ」「愛してるから言うのよ」と、いちいち子どもの好みに口出しする親がいます。

それは子どもが自由意志で生きることを認めていないのです。

また、「あなたを愛しているからやるのよ」と言いながら親にハンガーで幾度も叩かれる子どもたちもいます。

このような体験を通じて、ときに子どもは「親に愛されていた」「親は私のためにやってくれた」と勘違いしてしまうのです。

子どもは自分の意志を親から無視されたと思いたくないのです。自分が悪いから叱られたと解釈するのです。そして親は私を愛していたと思いたいのです。

この愛への誤解が、恋愛において相手に過度な依存をしてしまったり、DVや暴力・暴言があっても離れることをせず、しがみついたりするのです。

幼少期、親から自己の尊厳の領域を侵されるという辛い体験があっても、「私は親から愛されていた」と証言される方は少なくありません。

私は愛されていた、と信じたいからです。

辛いことをされても愛してくれていたのだ、あるいは愛ゆえに親は私にそういった態度をとったのだ、と信じたいからです。

しかしながら、実態は「愛をふりかざしながら」親は子どもの尊厳を侵したのです。

愛の意味は人によって違いますし、「愛が理由ならば」相手に何をやっても良いわけありません。

「愛のため」ならば、子どもたちは親から受ける痛みを我慢するべきでしょうか? いいえ。決してそんなことはありません。

親の愛が真実ではありません。

親の意見が真実ではないのです。

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