機能不全家族を生き抜くことで、心に重荷を抱えてしまったならば……。
子どもの頃の体験が、今の自分に影響を与えているように感じられるならば……。
同じ躓きを繰り返したり、
いつも被害者の気分に浸ってしまうならば……。
恨みと憤怒が止まらない、
過酷に自分を責めてしまう、自己憐憫にかられるならば……。
あなたにお伝えしたいことがあります。
このページでは「家族によって作られた生きづらさ」から抜け出す道を、お伝えします。
……私は子どものとき、親からの心理的虐待を受けました。
大人になった私は、いつも悲しみに気持ちが沈んでしました。
何をしても満たされず、仕事も恋愛も上手くいきませんでした。
心にぽっかりと大きな穴が空いていました。
いつも、どんよりとした「むなしさ」を感じていました。
漠然とした不安が、私の胸をしめつけるのです。
どうしてそんな気持ちになるのか? 私には分かりませんでした。
そして、自分がアダルトチルドレンであることにも気づけませんでした。
私の両親は、アルコール依存症と暴力が存在している家族で育ちました。
親たちは、家族を幸せにする方法なんて、知りませんでした。
むしろ幸せから遠ざかることばかりやるのです。
母親は父親を恨んでいました。結婚したことを、いつも悔んでいました。
両親は毎日、互いをののしり、罵倒しあっていました。
喧嘩が始まると母親は「かかっていけ!」と、父親を倒すように幼い私に言いつけるのです。
そのやりとりを、背中を見せるだけで、父親は何もしてくれません。
とても恐ろしく、とても悲しい記憶として私の心に残りました。
父親は母親と喧嘩をすると必ず、飲酒をします。
晩御飯を食べずに、ふてくされて酒を飲みながら、テレビを観ているのです。
そんな父親に、母親が荒々しい言葉をぶつけます。
ふたりの様子をじっと見ている私は、とても恐くて仕方がなかったです。
ある日、母親が父親に「プールにでも遊びに連れていけ!」と父親に言うと、しぶしぶ応じながら、父がだんだんと腹を立て始めたのです。
そして父親は私のプールの水着をハサミで切ったのです。
とても恐いことが起きたんだと思いました。
ましてや私は「遊びに行きたい」と、父に催促したのではないのです。
だからいきなり自分に危害が加えられた感じがしました。
そしたら「目立たないように水着を切った」と父親が言い訳をするのです。
それを聞いて母親が笑いました。父も笑いました。親たちが笑い合いました。
私は混乱するばかりでした。恐ろしい気持ちは誰にも受け止められず、笑い合う親たち。
恐ろしいことを起こした親たちが、笑い合うのです。
私は置き去りにされた気持ちになりました。
このように、なんとも言えない気持ちと混乱は、これからの人生でずっと続きました。
父親は読み書き、算数がまったく出来ません。
母はそんな父と結婚したことを「騙された」と父をよく責めていました。
しかし父の勉強ができないことの責任は私が背負わされたのです。
私が小学校に上がると、母は「お父さんに漢字を教えてやれ」と私に言うのです。
だから小学生の私は父親に勉強を教えるのです。普通は逆ですよね。
しかしこの「おかしさ」に私は気づくことが出来ません。
私はひとりっこなので兄弟姉妹がいません。だから「そんなことはやめておけ」と忠告してくれる身近な人物がいなかったのです。
父親は漢字どころか、平仮名さえ読めないことがわかりました。
私は何度も父親に平仮名を教えたのですが、まったく覚えてくれません。
私は悔しくて、泣いてしまいました。
すると父親は「なんで泣くのだ」と言ってのけたのです。
こういった理不尽さを指摘し、制止してくれる人はいませんでした。
狭いアパートのなかで、父と母が罵り合います。
それを見ながら、うろたえる私でした。私は誰にも守られなかったのです。
親から、何かを買ってもらうこともありませんでした。
私は親に「買って欲しい」と、ねだったことがありません。
私が何かを要求する前に「我慢しろ」と親が言うからです。
ですから、自分の好きなことをやるとか、欲求を持つことは、大人になっても「わがまま」なことだと思い込んでいました。
その反対に、私は「親の面倒をみなければいけない」という考えを強く持ってしまいました。
この考えは、親の言葉や態度を通じて、幼い私に刷り込まれたようです。
「親の面倒をみないといけない」――この考えは、大人になっても私を縛りつけました。
父親は自分自身の母親の入院や葬儀の手続き、その後の法的な後始末を一切やりませんでした。
読み書きが出来ない父は、手続き関係が始まると、いつも逃げてばかり。母は嘆くだけでやりません。
ですから祖母の入院や葬儀、法的な手続きは、私がやるのです。
ある日、たまりかねた私が「お父さんは、どう思うの? なんで私ばっかりしないといけないの?」と言うと、
「わかった! 俺が刑務所に行けばいいんだろう!」と激高するのでした。
どうして父はこうも極端なんだ。
この言葉にやるせなくなった私は、父と口喧嘩が始まるのがパターンになりましたから、ずっと家のなかは揉めていました。
法的な後始末はとても難航して10年以上、かかりました。
このままでは自分の人生が親に乗っ取られる。
そう考えた私は、独り暮らしを始めました。成人してからずいぶん経ってからです。
しかし母親は、私が家を出ることを嫌がりました。
「どうして親を置いて独り暮らしをするの! お父さんが嫌いだから? 私が嫌いだから?」と私に詰め寄るのです。
「ああ、俺は家を出ることが出来ないのだ」と息苦しくなりました。
一人暮らしをしていると、母親から毎日、何十回も電話が掛かってきました。
たまに電話に出ても気が狂った母の声が耳につんざきました。
電話だけではありません。私が留守中に大家さんから鍵を借りて、勝手に家にあがって冷蔵庫を開けて整理されたりするのです。
私もたまりかねず「もう来ないでくれ」と言うのですが、なぜか父も一緒についてくるのです。
父は母の言いなりでした。
これが、私からすれば逃げ場がないように感じられて、とても苦しかったのです。
ある日、消防署から電話がありました。
「なんのことだろう?」と電話に出ると、母親が「いま家にいるの? 近くまで来ているから家に行きたい」と……唖然としました。
携帯電話を持っていない両親は、消防署で電話を借りて私に「家にいるように」伝えるのでした。
母に鍵を渡す大家さんは私に、こういうのです。
「どうして? 親を置いてひとり暮らしをしているの?」
私はとても不思議でした。消防署の職員も大家さんも母親の言い分を受け入れることに。
母を止める者は誰もいないのだ。
私は暗澹たる思いがしました。
もう私が生きる場所はないのだと息苦しくなるのでした。
「ならば、他県へ出よう」と私は実家を遠くに離れて、ひとり暮らしを始めました。
もうここまで母は追いかけてこないだろう。
「あの人(父のことです)と、一緒に暮らすのは嫌だ。戻ってきて欲しい」と言う母を追い払って、やっと手に入れた自由です。
両親の言葉をずっと聞かされて育った私です。ひとりっこだけに私はシャワーのように親の言葉を浴びてきました。
そこから一転。まったく親の言葉が聞こえません。「こんなに気持ちいいものか」と、毎日が清々しかったです。
けれど母から執拗に電話がかかってきます。
たまには電話に出て、母の話に2時間くらい付き合うこともありました。
しかし、次の日「さみしいから」と、母から電話が掛かってくるのです。
母はあらゆる手段を使って私に連絡を入れようとしました。
ある日のことです。
私の知人や親戚から「実家に帰ってください」「どうして親と離れて暮らしているのか」と、私の携帯に一斉にメールがきたのです。
母がみんなに頼んで、私が家に帰るようにと、伝えさせたのでしょう。
真綿にくるまれるような母による束縛に、私の心は締め付けられました。
こんなに親のために頑張ってきたのに。「親を置いて遠方で暮らしている親不孝者」に私は一夜にしてなったのです。
とてもやるせなくて、悔しかったです。
ある日、見知らぬ男性と一緒に母親が急に家に来ました。
私は恐くて、恐ろしくて。鍵を開けることが出来ませんでした。
その日は、電気をつけずに暗闇で過ごしました。どうして私が遠慮しないといけないのか。どうして家を出たらダメなのか。
なぜ、みんな母親の味方になるのか?
結局、私は親の面倒をみるために生まれてきたのか。
この自問自答が現実になるのです。つまり母親が認知症になったからです。
母親の様子がおかしいことを、私は親戚から知らされました。
おそるおそる実家に電話をすると、まったく様変わりした母親が電話に出てきました。
もう以前の母ではないことが電話でもはっきり分かりました。
電話を切りました。私は母が認知症になったことを知り、目の前が真っ黒になりました。
そして「どうしよう。どうしよう」と胸のあたりから不安が突き上げてきました。
私はパニックに突き落とされました。
焦りと不安に振り回されながら、私はふと気づいたのです。
胸のあたりで叫ぶ「どうしよう! どうしよう!」の声とは……。
そうだ。これは子どもの私だ。
両親が激高して喧嘩する姿を見て、一瞬にして世界が暗黒に染まる恐ろしさを、ひとりで耐えていた「子どもの私」。
この子どもの私が今、母が認知症になった事実に、うろたえているんだ。
私は、突き飛ばされるように泣きました。どんどん涙が溢れて、わんわん泣きました。
ああ、大人になったけど、まだ私は親の「問題」を背負い込もうとしているんだ。
幼い頃から「どうしよう!」と、親が作り出す問題にうろたえていた自分。
この両親の元で生まれたことの「後戻りできない」生きづらさ。
逃れられない家族の宿痾を背負って生きてきた私……。
それらが、血のような熱い涙を通じて、今の私に訴えているようでした。
泣きながら私は「大丈夫。大丈夫だよ」と胸に手を当てて自分を励ましました。
……それから時が経って、私はある親友を得ました。
その親友は、私が暗闇に慣れるよう手を貸してくれたのです。
親友との深い語らいがありました。
親友はとても高い視点の持ち主でした。
深みのある物の見方ができる人でした。
彼の言葉は並のものではありませんでした。
「過去」を背負い込んだ私を、親友の「視点の高い言葉」が解放していくのです。
自分の過去の傷つきを掘り下げるのではなくて、私が持っている力や可能性が見いだされたのです。
ここで、あなたに大切なことをお伝えします。それは、
「話を聞いてもらっても悩みは解決しない」
今まで私は、友人や知人に親の悩みを話すことは、何度もありました。
しかし、話をしても悩みは消えず、かえって親への怒りが強くなるだけでした。
むしろ「問題だらけのストーリー」に厚みが出来るだけなのです。
「俺は親の事で辛い目にあっている」という想いが、ますます強まるのでした。
自分が語った内容が、自分のなかで固定化するからです。
親友との対話は、たんに悩みを聞いてもらうものでは、ありませんでした。
彼の視点の高い言葉によって、私は自分への洞察が深まるのでした。
そんな親友との対話によって、私のパワーや可能性は見出されていったのです。
自己卑下の強い私でしたが、「それ以外の私」が見いだされたのです。
親友との対話のおかげで私の目の前には、たくさんの可能性の道が開けていきました。
これまでの私の人生のストーリーは、「過去の辛い体験」の延長でした。
ずっと過去に縛られて生きてきましたから。
しかし親友との対話によって、暗闇に目が慣れたら、たくさんの可能性が見えてきたのです。
そうして、私の人生の物語は「過去」から決別できたのです。
家族の宿痾が、私を邪魔することがなくなったのです。
そして今、対話を仕事にしている私がいます。
私はセラピストになったのです。
セラピストをしていますと、様々な悩みや問題を抱えた方が相談に来られます。
罪悪感や深い悲しみ、激しい怒りを抱えている方……。
見捨てられ不安が強くて、辛い恋愛にとどまっている方……。
本当の自分を出すこと出来ず、人づきあいが苦痛に感じてしまう方……。
そうした悩みや問題が、子ども時代の「物理的・心理的虐待」や「見捨てられ体験」によるものだと、セラピーが進むにしたがって気づかれるのです。
多くの相談者の方は、自己の尊厳を侵犯された子ども時代がありました。
無垢な心をうち壊された体験を持たれていたのです。
現在の悩みの起源は、子ども時代の「過去」の体験にあったのです。
だからと言って、「過去」が現在、未来を決めるのでしょうか?
もしも「過去」が現在、未来を決めるならば、人生は「過去」の延長です。
そうなれば「過去」が、人生の主導権を握ってしまう。
人生をクルマの運転にたとえると、それはバックミラーを見ながら運転するみたいなものです。
過ぎ去った景色ばかり眺めながらクルマを運転するのは、楽しくないですし、行きたい場所に到着しないでしょう。
やはり、フロントガラスを見て、人生を動かしたいですよね。
「人生の物語」は書きかえることが出来ます。
人生の物語を書きかえるとは、「過去」から切り離されたストーリーを、人生のメインにすることです。
セラピーを進めていくことで、相談者は自分を悩ませた「過去」「過去から続く問題」から切り離されます。
そして相談者の資質やパワーに満ちた「ストーリー」が見いだされます。
相談者の人生のストーリーは過去から続く「一本道」では、なかったのです。
相談者は「過去」「問題」から切り離されることで、本来の自分自身を回復されていきます。
たくさんの可能性への道が開かれていきます。
こうして相談者は、自分の人生を取り戻されるのです。
かつての私が親友と対話して「新たな人生」の一歩を踏み出したように――。
機能不全家族によって作られた生きづらさを解消するために心理セラピーの内容は、こちらでご紹介しています。あわせてお読みください。
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